靖国参拝

 

東京都千代田区九段北3丁目1-1。

皇居の北に位置し東西に参道を持つ靖国神社は、明治以降の日本において戦争や国難に際し国家の為に命を捧げた人々の魂を、身分・勲功・男女の別なく斉しく祀る神社だ。

ここ数年来ずっと考えていたが、水戸からの帰り道に今一度行ってみることにした。

 

結論から言えば、行って良かったと思う。

 

良く晴れた秋の週末の神社は静かで、がなり立てる人も、集団で押しかける人もいない。人々は静かに、そして紳士的に参道を歩き礼拝し、見学していた。変わった服装の人などいない。外国人の方も、若い人も、カップルも、普通に綺麗でお洒落な人もたくさんいた。

 

なにより常日頃メディアで意図的に映し出されるセンセーショナルな映像と決定的に異なる点は、訪れる人が皆、自分の目で見て確かめてみようとしている点だ。

特定の思想側に偏ることなく、まず平明な目で見てみようとしている人が大多数だろう。もちろん人の心の中まで分かるわけないという人もいるかもしれないが、そんなことは顔つきや立ち居振る舞いを見てれば大体分かる。

 

 

展示を見れば、日本の教育現場における近現代史というものがいかに割愛された内容であるかがわかる。

 

私は高校生の頃理系の生徒で世界史を選択しており、そして好きで成績も良かったので国際関係に興味を持っていたが、世界史的な外からの目線で考えるとどうも教育現場における日本側の解釈に腑に落ちない点が多々あるように思えて仕方なかった。

自分なりに調べ考えてみたこともあった。そして何より、新聞各紙や報道機関の論調の差の意図的な程の大きさに、合理性を欠いた言論に辟易することが多かった。

 

もちろんこの国には言論の自由がある。何を言ってもいいところがこの国の良いところでもある。

 

だが私の経験や諸外国を見つめ考えてみると、本当に国際的に信用を得る態度というものは、お仕着せられたり改造や追従からくる思想から発せられた言葉で話すことではなく、起きた歴史をその当時の国際情勢や政局をありのままに理解し、その系譜をもって大きく捉えた歴史感から毅然とした態度で話すことでしか勝ち得るものではない。

 

そしてそれを海外の多くの国々は普通にやっている。中途半端な世界市民気取りなど実際ありえないのだと思う。

 

内容が戦争に関してである以上、どうしても辛く思う人もいるだろう。被害や感情的なものに一番に目が行くのは当然のことだ。だが戦争が外交と切っても切り離せない表裏一体のものである以上、なぜそうなったかを内からも外からも考える必要がある。その上で現在や将来の外交の在り方を考えるのがフェアな姿勢だと私は思う。

 

靖国の展示は実は外から考えてみる展示だ。

 

私はこの神社の在り方は正しいと思う。東京裁判の正当性というものを冷静に考えて見れば、代わりの施設などあり得ないのだから。