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2026年
6月
05日
金
H邸 竣工/若松町の家
5月末にH邸が竣工しました。すっきりとした切妻屋根の木造平屋建て住宅です。
インテリアは木を用いてモダンにまとめました。これから少しずつグリーンを整えていきます。
家具納品や引っ越しも無事終わり、H様の新生活が始まりましたこと、心よりお喜び申し上げます。
一緒に頑張ってきた日々は長いようであっという間でしたね。改めてご依頼に感謝いたします。
この住宅は、若松町の家と呼ばせていただき、作品ページに掲載させていただきます。
住宅を検討中の皆様、私と一緒に創り上げてみませんか。どうぞお気軽にご相談ください。
2026年
5月
27日
水
紫陽花(あじさい)の土
5月も下旬になり、だんだん夏が近づいてきたことを感じます。
さて今日は庭の植物について。
住宅では外構や植栽計画で雰囲気が大きく変わりますよね。どんな植物が合うか皆さん悩みますし、庭づくりを始めた後も試行錯誤しながら作り上げていく楽しみがあります。
とはいえ、植物の管理は住まい手の性格や関心、ライフスタイルに負う部分が多いので、仕事が忙しくて庭の管理まで手が回らない人には、現実的な選択を進めることもあります。無理に樹木を地植えにしないで、観賞用の低木を鉢植えで屋内やテラスに置いても素敵です。今は陶器のように見える軽い鉢が主流ですので、手軽に美しく整えることができてお勧めです。
さて、写真は私の実家の庭の紫陽花です。そういえばうちの紫陽花はいつも青いな~と思っていたのですが、最近調べてみると紫陽花の花色は土の成分と関係があるとのことでした。
土壌のphが酸性だと青色、アルカリ性だと赤色になるようです。日本はよく雨が降るので基本的に酸性土壌が多いのですが、水分が多いとアルミニウムが溶けやすく、そのアルミニウムを紫陽花が根から吸収して青色の花となります。
雨があまり当たらない軒下で水道水だけで育てたり、石灰をまいた土では赤色(ピンク)になるようです。土の成分操作で色をコントロールできるようなので、様子を見ながら気長に育てていくと多様な色味を作れそうですね。
ちなみに家庭菜園で野菜やハーブを作ってみたいと思う方は、酸性の土で育つもの、アルカリ性の土で育つものが分かれますのでご注意ください。例えばジャガイモは酸性土壌を好みますが、ホウレンソウは向きません。ローズマリーやラベンダーはアルカリ性土壌で育ちやすいハーブです。まず土の性質を知り、作物選びをしてから取り掛かると良いでしょう。楽しんでみてください。
2026年
5月
20日
水
レモンとブルーベリー
久々に、藤枝市岡部町のURAYAMA FARMの投稿です。
今まであった茶の木が古くなり生産に向かなくなったので、去年より茶畑を撤去して耕地整理をしています。
さて今週のレモン畑では、レモンの赤ちゃん(幼果)が生っています(写真の白い花の隣に)。それぞれの花が咲き終わったところから顔を出してきて、だんだん大きくなって実になるのですが、新しい葉もレモン特有のフレッシュな香りがしてとても癒されます。
ブルーベリーの方は、最近周りの草刈りをしたり、苗木を増やしたりしたのですが、もう房にどんどん実がなっていました。今年は多いかもしれません。これから摘果作業が必要になってきます。
ブルーベリーの収穫時期は夏ですので、欲しい方がいらしたら、お気軽にご連絡くださいね。
2026年
5月
18日
月
H邸 デッキテラス工事
H邸の工事も終盤に近付き、現場の大工さんはここ数日デッキテラスの施工にかかりきり。
半屋外空間で雰囲気がガラッと変わるため、設計者としても気になってよく見に行っています。
この日は幕板の施工でした。全員等間隔で作業している姿が微笑ましく、記念に一枚。
今月末の竣工に向けて外構工事も始まり、最終調整に余念がない日々を送っています。
ディテールに神は宿る。喜んでもらえるように、じっくり丁寧に頑張ります。
2026年
5月
01日
金
アンドリュー・ワイエス展
ゴールデンウィーク、東京都美術館で始まったアンドリュー・ワイエス展を見てきました。東京都美術館開館100周年記念事業です。東京都美術館は、1925年に様式建築の名手とうたわれた岡田信一郎が設計した旧館が開館しましたが、現在の建物は1975年にモダニズム建築の巨匠・前川國男が設計してできた新館となっています。
美術館へのアプローチは、広場のGLから地下広場に下りて館内にアクセスする計画ですが、これは風致地区の高さ制限や公園法の関係から、要求床面積の半分を地下に埋めなければならなかったことが起因しています。設計当時、旧館の17,000㎡の倍近い、31,000㎡の床面積の確保を求められたことから、必然的な選択だったとのこと。
新館の建設からも年月が経ち老朽化が進んだため、2010年から2年間かけて、大規模改修工事が行われ、設備の全面更新やユニバーサルデザインの導入が図られました。
アンドリュー・ワイエス(1917-2009)は、20世紀アメリカ具象絵画を代表する画家です。
第二次大戦後に脚光を浴びたアメリカ前衛芸術の喧騒からは距離を置き、ひたすら身近な人々と風景を描き続けた画家でした。故郷ペンシルベニア州と夏の別荘のあるメイン州を生涯拠点とした創作姿勢は、同時代的には控えめに映るかもしれません。
しかし、挿絵画家だった父の手ほどきを受けて画家への道へ進み、20歳の時に開いた個展では全作品が完売するなど、若くして頭角を現して確かな実力を蓄えていきました。
今回初めて作品を見て私が驚いたのは、水彩画であみ出したドライブラッシュという画法が精緻な表現を生み出し、作家の精神世界を表現するうえで非常に有効に働いていることでした。決して派手な色彩を使っているわけでもなく、大前提で構図や下書きの精度が決している部分が大きい、普遍的なものを感じました。
今回の展覧会のテーマ「境界」にあるように、作中の窓やドアなどが境界としてのモチーフとして存在しており、境界に立つ時の心の動き、現実に潜むもう一つの真実を描き出そうとしています。建築家の自分としては、物体を通して詩を表す感覚が非常によく分かり、強く印象に残りました。
2026年
4月
12日
日
松崎町 旧依田邸
伊豆半島西海岸南部の賀茂郡松崎町を訪れました。なまこ壁の建物や倉で有名な街ですが、今回の目的は那賀川上流の大沢地区に位置する旧依田邸です。大沢温泉もある、川沿いの桜並木が美しい場所です。
この地の名主として豪壮な庄屋屋敷を構えた依田氏は、元は武田家の家臣でした。武田家滅亡の折り、西から織田・徳川、東から北条に挟まれ、目指したのが南の伊豆半島。伊豆松崎の大沢の里まで逃れ、以来この地に根をはり、江戸幕末を迎え歴史が動きました。
江戸時代、松崎港は駿河湾沿岸の「風待ち・潮待ち港」として繁栄しました。伊豆半島西側は峻険な山や谷で分断され陸路による物資の運搬が困難であったため海運が発達し、年貢米や鰹節、上方の商品などが松崎を経由して江戸に運ばれて行きました。
また、気候温暖な松崎の地は桑の栽培に適しており、古くから良質な早場繭の産地でした。
幕末になると近くの下田が開港したことから情報が伝わり、横浜の生糸商人が大量に買い付けに来て、繭価の基準「伊豆松崎相場」が欧米で有名になるほどでした。そんな時代背景を受け、明治4年に依田家第11代当主の依田佐二平氏は、当地にフランス式製糸工場を建てます。女子工員を官営富岡製糸場に派遣し、そのノウハウを習得して事業を確立。目の前を流れる那賀川の舟運で松崎港まで生糸を運び、下田、横浜を経て欧米に輸出して富を築きました。
そしてその財を地域に注ぎ、小学校や中学校を創立、女子教育にも力を注ぎました。同時に海運会社や銀行を興し、松崎町発展の礎を築きました。以前、松崎には昔高等女学校があって、裕福だったと人に聞いたことがあったのですが、今回初めてつながってきました。
更にこの方、静岡県賀茂郡長や県議会副議長、第一回帝国議会衆議院議員に当選するなど、すごい勢い。今の松崎のゆったりとした雰囲気とは違う、熱い時代でした。
ところで皆さん、北海道の十勝平野帯広の六花亭というお菓子の会社はご存じでしょうか。美味しくて有名ですよね。そこの商品であるバターサンドは、松崎町の依田家にゆかりの商品です。
佐二平氏の弟の依田勉三氏は、慶應義塾で学んだ後に北海道開拓に目覚め、故郷で教師を務めた後に北海道開拓を志す晩成社を設立しました。現地調査研究を経て、明治14年に北海道に渡り、帯広の地の払い下げを受け、開拓に取り組みます。当時の帯広の地は、アイヌ10戸、和人1戸の本当に小さな集落だったようです。
晩成社は、イナゴや冷害に襲われながらも、様々な畑作、稲作、酪農、加工などの事業を展開しました。しかし経営は上手くいかず、ついに力尽き、大正5年に晩成社の活動は終わりを迎えました。
晩成社は残りませんでしたが、その活動や取り組みは十勝発展の礎となり、六花亭は晩成社を記念して〇の中に成(セイ)のマルセイバターサンドを作りました。マルセイは1905年に晩成社が北海道で初めて商品化したバターです。その流れが引き継がれ、松崎町は昭和53年に帯広市と開拓姉妹都市を締結しました。
人に歴史あり、一族に歴史あり、まちに歴史あり。ツーリング途中に温泉に入ろうと寄り、こんなに熱い話を知りることになるとは思いませんでした。併設している大沢温泉もいい湯ですので、是非お立ち寄りください。
2026年
4月
02日
木
jin cafe
4月になり、富士市吉原のjin cafeさんを訪れました。こちらは築100年の古民家を改装したカフェでして、オーナーは富士市の電気設備会社の代表の方。昔は景気が良かった吉原のまちに再び明かりを灯そうと、駅前の古民家を譲り受け、手をかけてお店を開いたそうです。
古民家リノベーションの参考になればと来たのですが、いやいや。こちらはスタッフの方もお店の手入れも本当に丁寧。平日の雨空にもかかわらず、すぐ満席になりました。
建築の軸組は極力そのまま使いながら、家具や什器に良いものを選び、設備を現代的に更新した空間となっています。
私も3月末に長かった幼稚園の仕事が終わり、ほっと一息させていただきました。温かいコーヒーが沁み渡り癒されました。3年間いろいろな事があり、ずっと気を張っていたので、心身共に休養が必要だったんですね。ありがたいです。これからの人生をゆっくり考えてみようと思えた時間でした。
2026年
3月
24日
火
静岡サレジオ幼稚園 内覧会
2026年
3月
22日
日
浜名湖 湖北五山 方広寺
3月も後半になり、暖かくなってきました。時々急に寒くなったりしますが、静岡の桜の開花はあと1~2週間というところでしょうか。
さて今日は、新しいカメラの試し撮りということで、浜名湖の湖北地方にある名刹、方広寺を訪れました。複雑な意匠を持つ伝統建築の軒先や屋根を上手く写せるか、練習です。
撮影テーマは、絞り優先でピントが深く合う建築写真が撮れるかどうか。一般的に建築写真の撮影では、ボケを抑えるためにF値8~11以上とすることが推奨されていますがどうでしょうか。明るさや距離感もあるため一概にはいえませんが、目で見た感じに近づけたいと思います。
ちなみに先に言っておきますが、このあと露出調整をすることをすっかり忘れて撮影しています。なので、相当古典的(絞って、近づくかどうか)に撮っています。
方広寺は、1371年に後醍醐天皇(南朝)の皇子である無文元選禅師によって開創された、臨済宗方広寺派の大本山となる禅寺です。寺領は湖北の豪族奥山氏から寄進されました。
奥山家は、先に後醍醐天皇の皇子を井伊谷に迎えて今川家と遠江で戦った井伊家に仕えていた有力親族でした。
後に徳川四天王と呼ばれた井伊直政の母は、奥山家の出身で、湖北の地において、長い歴史と影響力を持つ家でした。
本堂の隣には、開山堂という歴代天皇の尊牌を奉安している建物があり、勅使門から出入りします。皇室関係者しかくぐることはできません。宮内庁の管理地になっているようですが、やはり風格がありますね。本堂にも菊の御紋が記された勅使玄関がありました。南朝からつながるご縁です。
本当に別天地のような静けさのある壮大な伽藍です。ゆっくりと歩き、思索するにはとても良い場所でした。
2026年
3月
07日
土
H邸 断熱工事
H邸の断熱工事が進んでいます。
省エネ法の基準に適合する、高性能グラスウールを外壁と天井裏に施工します。
日射を受ける屋根に近いほうが断熱材も厚くなるので、外壁105ミリに対し、天井裏は155ミリのグラスウールを施工し、布団のようにフカフカです。
断熱材の内部側には気密シートを張って、室内の湿気が壁内や天井裏に入らないようにします。プラスターボードは石膏なので透湿性が高いため、特に注意が必要です。
これをやらずにグラスウールに湿気を吸わせ放題にして、外気側をシーリング等で密閉してしまうと、湿気が抜けずに壁内や天井裏でカビたりします。たまに新しい家なのに明らかに北側の外壁が汚れていたりするのを見かけますが、北側は水回りや室内干しのランドリールーム等を配置する家が多いため、起きやすい現象です。
もちろん、当事務所は内気側は気密、外気側は通気を徹底して、壁内の断熱材や材木の状態を常にドライにし、各性能が十分発揮される、耐久性の高い安心な建物となるよう努めています。
この辺りの作業は、各工種の職人がバラバラにやってはダメで、全体的な施工理由を事前に皆で共有するように徹底しています。残念ながら職人さんの中には、頼まれたことはやるけど意味は分かってない人もいるため、たまに驚くことをやってしまう例も多々あるので…。
ちなみにこの現場は、大工さんのT君が棟梁のIさんの下で頑張っており、私もよく声をかけ一緒にやっていますので、大丈夫です。頼むよ!
2026年
2月
13日
金
静岡サレジオ幼稚園 最終工程へ
静岡サレジオ幼稚園の工事も、完成まで残り一ケ月となりました。
この頃になると、最後の段取りを指で数え、まとめる作業になってきます。
あれやって、これやって、最後にこうして…。
この日は造作工事と塗装工事の調整をつけながら、遊戯室の照明BOXを取り付けています。
大工さんたちの作業を見つめる現場監督の立ち姿に、この現場で重ねてきた月日を感じました。
皆でやりとげる瞬間が、近づいています。
一つ一つ手直しをして確認し、ゆっくりと確かに、その日が訪れることでしょう。
2026年
2月
04日
水
H邸 中間検査
本日はH邸の中間検査でした。
「屋根の小屋組工事及び構造耐力上主要な軸組工事」の終了後に確認検査機関の検査官の方に検査をしていただきました。
基礎工事の施工状況、コンクリートや鋼材の製品仕様、軸組の架構、筋交いや構造金物の取付状況、耐力壁の施工状況等、設計者として工事監理をしっかりと行っていたので、問題なく合格。検査は面倒に感じる人もいますが、いい建築をつくるためには、やはり必要な工程だと思いました。
2026年
1月
24日
土
H邸 建て方
1月吉日、H邸の建て方を行いました。木造平屋建ての住宅ですので、クレーンで荷揚げしながらどんどん進みます。
この日のために綿密に打ち合わせを行い、製材の検品や施工手順の確認もしっかり行っていたので、当日はスムーズに進みました。
お施主様と大工さんたちとお昼を一緒に食べ、夕方には形になりました。見えてきた建物の輪郭を前に、身が引き締まると同時にワクワクする気持ちが湧いてきます。
良い作品に仕上げていきたいと思います。
2026年
1月
10日
土
H邸 材木製品検査
あけましておめでとうございます。
本日は、H邸の建て方に使用する材木の検品のため、富士のプレカット工場にやって来ました。いざ建て方が始まると待ったなしなので、事前に材木の状態を確認することはとても大切な作業です。人任せにするか、自分の目で見るかで、リスクが大きく変わります。
帰りに工務店の作業場に寄って、化粧柱の状態を確認してきました。どれも素直な良い材です。使う位置や向きを決め、建て方を待ちます。静かに闘志が湧いています。
2025年
12月
31日
水
金沢 兼六園
早いもので大晦日となりました。
静岡の師走は連日晴天で温かく、仕事納めをしてから陽だまりの中で過ごしております。
写真は金沢の兼六園。11月に所用で金沢に行った際に訪れました。
この日は曇りから雨の天気でしたが、やはり前田家の殿様のお庭。情緒がありとても良かったです。建築を見たり散策したり、金沢はとてもいい街です。来年また行けたらと思います。
それでは、本年中にお世話になった方々、HPを見てくれた皆様、本当にありがとうございました。
2026年も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。
2025年
12月
20日
土
H邸基礎工事
現在工事を進めている、葵区のH邸の基礎工事の写真を同方向から並べてみました。
位置出し、地盤掘削&砕石転圧、防湿シート敷き、捨てコンクリート打設と、最初が肝心です。
お客様にとって後から見えなくなる部分の仕事に全力を尽くすのが、私の流儀。
ちなみにこの後で基礎の鉄筋を組んでいくのですが、私は鉄筋工事をとても大事な工程だと特に重視しているので、作業性を高めるために捨てコンクリートを全面打設するようにしています。
捨てコンクリート事態は強度を期待するものではない準備作業用のものですが、これをきちんとやらないと、鉄筋組みやコンクリート打設時に職人さんが乗った重みでスペーサーが砕石に沈んでしまったり、防湿シートが破れたりと、半分妥協のような現場になってしまうこともあるので注意が必要です。瑕疵担保の配筋検査でも心置きなくできなくなってしまいますしね。
ベース鉄筋と地面とのコンクリートかぶり厚確保(中の鉄筋が錆びないように)、墨出しレベル精度確保、設備配管スリーブ位置確認のしやすさなど、多くの作業に影響します。平らな部分を省略する工事法もあるのですが、そここそ基礎スラブ本体。何がベストかは明らかです。
一つの工程をやって終わりでなく、「この仕事は次の仕事のため、その仕事はさらに次の仕事のため」と現場で言い聞かせています。
2025年
12月
10日
水
静岡サレジオ幼稚園 遊戯棟屋根工事
静岡サレジオ幼稚園の遊戯棟屋根工事の様子です。建て方からルーフィング敷き、板金工事と並べてみました。保育棟と同じく、片流れの立平葺きです。
敷地のある草薙エリアは、静岡市の景観計画区域内に指定されており、大規模建築物は外観上の色調に制限があります。今回の屋根はブラウンでまとめました。
地元の人はご存じかと思いますが、静岡県立大、静岡銀行本部ビル、常葉大学など、近隣では茶系の抑えた色調でまちを修景してきました。一連のつながりで地域の色調を整える政策です。
ちなみに今回計画している建物の屋根は、道路からはセットバックして高さを抑えていますが、保育棟と遊戯棟を合わせると長さ約47m、渡り廊下の屋根だけでも約38mあるので、なるべく控えめに、シンプルにをテーマとしています。
「シンプルなフォルムで、しっかりきれいにつくろう」と現場で言い聞かせています。
2025年
11月
30日
日
美濃 岩村2
岩村町岩村本通り伝統的建造物保存地区は東西延長約1.3km、面積14.6haの範囲で平成10年に指定を受けました。保存地区中央の枡形東側と西側で性格が分かれ、東側は江戸時代からの商家として栄え今でも当時の建造物が数多く残っています。西側は江戸末期から順次発展し、明治39年開通の現明智鉄道岩村駅につながる地域となりました。各中庭には天正疎水と呼ばれる水路が縦断するように通っており、城下町の商家地区の近代的発展過程が分かる都市構成となっています。
木村家は、江戸時代中期から末期に栄えた問屋で、藩が財政難になるたびに御用金を調達して危機を救ってきました。御用金については商家からしたら厳しいところもありますが、殿様専用の出入口があるなど、藩政と密着したかなりの有力者でもありました。
建物配置は、本通りに面して店があり、ゆったりとした中庭を挟んで蔵などが立ち並んでいます。奥に長い町割りを活かした計画ですね。ちなみにここで映画「銀河鉄道の父」のロケも行われたとか。後で気づいたのですが、前のブログ記事のなまこ壁の写真は、この屋敷の蔵の外壁でした。
土佐屋は今から260年程前に染物業を営んでいた商家です。通りに面した母屋は1780年頃の建築であると推定されており、ドマミセの商家形式の町家となっています。このドマミセに染壷が据えられ、職人が生糸や布を染めていました。
通り土間を抜け中庭に入り(足元には天正疎水が流れています)、その奥の離れ座敷、さらには土蔵、収蔵庫へとつながります。一番奥には染工場があり、二階は染色した紺糸を乾燥させる場所として使用していたようです。岩村川に近い裏路地にもつながっていましたから、表と裏で総動員で忙しく働いていたことでしょう。
世にいろいろなリノベーションはありますが、元々どんな用途の建物だったか、それが地域にどう役立っていたかが分かる形式で残されていると、当時の暮らしや経済、文化などがイメージできますね。建築は地域を写す鏡と言われる、面白いところです。
そうこうしていたら日も暮れてきたので、かめや菓子舗のカステラcafeで休憩です。
コーヒーを頼んだだけなのに、美味しいカステラをつけていただき、江戸時代につくられた朱の高膳が並ぶ和の客席からお庭を眺めながら休めるなんて・・・、豊かすぎる。
伝建地区であること、その中で頑張る事、大事にすることで喜んでもらえ、また人が来ること。この秋いろいろな歴史のまちを見ましたが、住民の教養にもとづいた愛情があれば、まちはいつまでも続くのでしょうね。
2025年
11月
20日
木
美濃 岩村1
岩村へ向かうため、三河高原を北上して豊田市武節町の武節城址までやってきました。ここは街道が交差する要衝の地。写真の交差点から右側に行けば三河、左に行けば美濃、まっすぐ行けば信濃の国に至る三国の国境。
その昔、長篠の合戦に敗れた武田勝頼は、ここまで落ち延びてきて休息を取ったとか。
もし三河からの伏兵が潜んでいたら危なかったかもしれませんね。いすれにしろ現在でも奥三河の拠点地域。道の駅で休息した後は、一路美濃方面へバイクで走り出しました。
山間の街道を走り抜け、盆地の入口に岩村の町が現れました。ここは八百年余りの歴史を持つ三万石の城下町。江戸時代は代々松平氏が治めていましたが、歴史に詳しい方には戦国時代の方がよく知られています。
この辺りは信州と美濃の国境に近く、武田家と織田家の勢力がぶつかるエリアでした。この重要戦略拠点を確保しようと、織田信長の叔母「おつやの方」が当地の遠山景任に輿入れ。景任亡き後はおつやの方が家臣を率いて武田氏と戦い、女城主と呼ばれました。
その後戦国の悲運はありましたが、城下町は東濃地域の政治経済、文化の中心地として栄え、現在では重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
城下町に入ると、現在でも人々の営みが息づいており、保存だけでなく、進行しているのだ分かります。山城の岩村城から西に延びた城下町。風情も申し分ありません。
岩村城はとんでもない城です(笑)。本当に足が攣りそうになりました。
大和の高取城、備中の松山城と並ぶ日本三大山城の一つに数えられていますが、なぜそこまで登らせるのか、意味が分からないくらいです。もちろん建築的空間体験としては強烈なものがありますが、数百年にも及ぶ城普請の中で、石垣を積み上げ続けるのも相当の苦労があったと思うし、今の考えで言えばその労働合理性も不明なくらいです。
それでも江戸諸藩の府城の中で最も高い標高717mに築かれ、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城として、「霧ヶ城」と名をはせました。
実際、登ってみると気持ちがいい風が吹き抜けていきます。虎口虎口の連続で、恐ろしく防衛力の高い山城なので、便利さとは真逆の設計ですが、この山中に井戸が17カ所もあったとか。
鎌倉室町時代300年、戦国時代100年、江戸時代300年の計700年間、明治の廃城令まで存続し、江戸期に藩主邸は麓に下りましたが、城下町を含めよくぞ維持してまいりました。
そんな岩村藩ですが、実は駿河国内に15ヶ村の飛び地を領しており、私の地元に陣屋を構えていたとのこと。江戸までは距離がありますから、参勤交代の費えにしたのでしょう。後で調べたら陣屋跡がグーグルマップに出てきました。ご縁がありましたね。
2025年
11月
10日
月
信州 中山道木曽路 奈良井宿
「木曽路はすべて山の中である」
静岡に住んでいると中山道、特に木曽路は全く使う機会がなく、風情も何も分かりません。古来より交通の要衝としてあり続けた、両側を山に挟まれた100キロにも及ぶ街道とはいかなるものか。いつか行かなければとずっと心に秘めていた、今回のツーリングの重要な目的でした。
松代から松本で一泊して翌朝出発。塩尻で諏訪、飯田、木曽方面の分岐の一番右を選択し、緊張しながら山間の木曽路に入りました。初めてこの道を発見した人って誰なんでしょうね。
走り始めてまず驚いたのが、川が北上していること。愛知の伊勢湾に注ぐ木曽川のイメージが強かったからでしょうか。標高差も分からなかったのですが、私は登っていたんですね。
奈良井宿までは奈良井川が木曽路に沿って北に流れており、そしてこの川は松本盆地をさらに北上して安曇野で梓川に合流し、犀川と名を変え川中島まで流れていく。木曽路北部から松本盆地南部の人々の生活を支える由緒ある大切な川。恥ずかしながら全く無知であったとはいえ、自分がたどってきたルートと重なっていることにご縁を感じます。
木曽路最大の難所と言われた鳥居峠。その北に位置する奈良井宿は、木曽11宿の中で最も標高が高く(940m)、交通の要の宿場町として多くの旅人で栄えました。
「奈良井千軒」と謳われたまち並みは、1978年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、往時の面影が色濃く残されています。写真は「木曽の大橋」。総ヒノキ造りの太鼓橋が、奈良井宿の水辺公園と道の駅をつなぐように、奈良井川の清流に架かっています。
職業柄、橋の構造架構に興味深々です。
文化財保護法の中に定められる「伝統的建造物保存地区制度」では、新築や増改築、修繕等の外観に影響する現状変更に関して許可が必要です。特に伝統的な建築物はその特性を維持するため変更に際しての規制があり、周囲の町並みと調和するよう様々な基準が設けられています。
とはいえ、江戸時代からずっとそのままというわけではありません。1978年の制度制定までを振り返ってみると、江戸時代には町屋が連続していましたが、明治から戦前にかけては洋風建築が建ち始めました。写真右手前は旧奈良井診療所ですが、奈良井宿では珍しい重厚な感じの洋館です。
さらに昭和40年代になると建物の高さが大きくなります。経済成長の影響でしょうか。そして昭和末から平成にかけて、高さを整えるなど歴史に配慮した整備が進みました。
重伝健に指定されて50年近く経った現在の奈良井宿は、修理修景がしっかり行われてきた結果、江戸の宿場町の雰囲気を肌で感じる町並みとなっています。
保存地区の中での暮らしは窮屈で堅苦しいと思う方も多いかもしれません。もちろん、そのような面もあるでしょう。しかしよく見ると、表通りに面した外観の形式は守りながらも、内部で現代の生活が営まれています。裏側には町並みに合わせながら生活できる設備や倉庫、もちろん駐車場もあり、日常生活を維持できる仕組みを取り入れながら保存しています。
その一方で、この日は平日でしたが、欧米やアジアからの観光客の方々がたくさんいらしていました。日本人ももちろんですが、景観整備をやり抜くことで重要な観光資源を生み出し、山間地の重要な生活の糧になっているように見えました。
この日は天気が良いため日差しも強く、宿場町の軒先が大きく前に張り出した建築様式に助けられました。気づいたらどなたも日陰の下をお行儀よく歩いていたので、天気と付き合う設えの工夫は時代を超えると実感しました。
さて、中山道の旅は時間的にそろそろここまで。
観光案内所のそばの食事処「松波」さんで信州名物ソースカツ丼をいただいて腹ごしらえをし(とても美味しくておすすめです)、バイクに乗って出発です。
鳥居峠を南に超えた後は、左に曲がって権兵衛峠で木曽山脈を越えて伊那に入り(見晴らし最高)、高遠から北上し杖突峠を超えて諏訪へ出て、中央道を走り南アルプスを右目に静岡まで帰って来ました。なかなか走りまして、なかなか体にきて、翌日は休養しました(笑)。いい旅でした。
2025年
10月
30日
木
信州 松代3
秋の日も落ち始め、まちがゆっくりとオレンジ色に染まってきました。文武学校を出て、長い塀を巡り、水路に目を落としながら歩いていくと、真田邸に着きました。
この建物は大政奉還が行われた1864年、松代藩9代藩主真田幸教によって建てられました。
御殿(主屋)と表門、7棟の土蔵などが建ち並び、庭園と一体となったその造りは、全国でも数少ない御殿建築の遺構として、1981年に国史跡に指定されています。
屋根瓦の鬼瓦は、やはり六文銭です。
「良い空間には、静けさがある」
この言葉の意味が、本当によく分かります。
園側に腰かけ、庭園越しに遠くの山々を眺めているだけで、日々の疲れが癒され、心に余裕と静けさが満ちてくるのが分かります。
庭園や建築は手入れが行き届いており、気持ちよく過ごさせていただきました。
色々なところを訪れるたびに思うのですが、強い印象が残る場所もいいのですが、何か思索できる空気がある場所が、私は好きです。
2025年
10月
20日
月
信州 松代2
まちの中を歩いてみると、落ち着いたたたずまいの建物や玉砂利で舗装された道路で修景されているのが分かります。北信の小布施の街並みを思い出しますが、あちらは栗と北斎の商都、こちらは城下町ですから少し違います。松代藩真田家ゆかりの施設を訪ねてみました。
幕末の安政2年(1855年)、殿町に松代藩士の子弟が学ぶ藩校・文武(ぶんぶ)学校が開設されました。敷地内には文学所、教室(東序・西序)、剣術所、柔術所、弓道所、槍術所などがあり200名以上の生徒が通っていました。当時の時間割には医学や西洋軍学、砲術も組み込まれ、藩の防衛も視野に入れた近代的な授業がなされていました。
学校開設を計画した第八代松代藩主・真田幸貫は、幕府の老中兼海防掛に任命されており、藩士である西洋兵学家の佐久間象山が顧問としてアヘン戦争や海外情勢を研究するなど、その目線は海外に向いていました。山に囲まれ海から遠い信州松代の地で、海外に目を向けた熱い議論が日夜交わされていたことでしょう。
建物群は創建時の姿で伝えられており、手入もが行き届いた気持ちの良い空間です。武道場を含めたほぼ全ての建物が開校当初の位置に現存している日本唯一の藩校であることが高く評価され、1953年には国の史跡に指定されています。
ちなみに松代は太平洋戦争末期、日本帝国軍部により本土決戦最後の拠点として、大本営や政府機関の移設を計画され、総延長5853mの地下壕が掘られました。
真田家という小豪族の一筋の流れは、数百年に渡り日本の戦に関わり続ける、まことに数奇な運命をたどることになりました。
2025年
10月
10日
金
信州 松代1
上田を出て一路北上し、松代へ。真田家の歴史をご存じの方ならお分かりですね。
そもそも上田城は、武田家滅亡と本能寺の変(1582年)の後、領主が空白地帯となった甲信動乱の中、上杉家や北条家と対峙するために、真田昌幸が徳川家の支援を受けて築いた城でした。
皮肉にもその後、沼田領問題が起きて真田家は徳川家と戦うことになり、第一次上田合戦(1585年)で徳川家を退けました。
さらに関ヶ原の戦い(1600年)では父・昌幸と弟・幸村が豊臣方に、兄・信之が徳川方(本田忠勝の娘が妻だったため)に分かれて戦ったのは有名な話。中山道を進んできた徳川秀忠軍を破って(第二次上田合戦)足止めしましたが、結果的に関が原で豊臣方が破れ、父と弟は高野山に流され、兄・信之が上田の領主となりました。
その後、大阪の陣(1615年)でまた両陣営に分かれて戦い、豊臣家滅亡から7年後、兄・信之は松代に加増移封され上田を去りました。戦国時代の縮図のような、本当に大変な家です。
私は30代の頃に池波正太郎の小説「真田太平記」を初めて読み、この一族が通ってきた道をいつか機会あればたどってみたいと思っていました。で、15年以上経ち、機会は来ない、自分で作るしかないと思い、来てみた次第です。
上田から千曲川に沿って北国街道を北上していくと、聞いたことのある重要な合戦場の地名が出てきます。私も信濃国の群雄達がしのぎを削った地と思い、時々バイクを止めては周囲の山々を眺めていました。武田信玄、村上義清、上杉謙信。幾多の武将や軍師達が敵より少しでも有利な要害の地を求め、日夜山野を駆け回っていたのでしょう。
特に松代城の前身となる海津城は、武田の軍師山本勘助が川中島の合戦(1561年)に備え築城したことで知られています。強敵上杉軍と対峙するにあたり、勘助は万一の時のためを考えます。西側を流れる千曲川を天然の堀にし、三方を山々に囲まれ、城からの裏道が上田近くの真田の庄まで通じるこの地は、防御と撤退には格好の場所であったと言われます。
もっとも当の信玄は「月を見るのにいいな」と鷹揚に構えていたと、井上靖の小説「風林火山」で描かれてれています。最後の月見の数刻後には、最大の激戦となる死闘が繰り広げられ、山本勘助は討死、武田信玄も手負いの身となりました。
本当に静かで穏やかな現在の松代城。駿河からここまで来ましたが、ここはもう越後の方が近いんですね。城の周囲に残された水堀を渡り、石垣を抜け、展望台から八幡原と呼ばれた地を遠く眺めていると、軍馬の響きが聞こえてくるような気持ちになりました。
2025年
10月
01日
水
信州 上田
初秋のツーリングは信州と定め(少しでも涼しい方へ)、1日目は上田まで走ってきました。その昔、浜松の徳川家康が上田城の真田攻めを行っていたので、静岡からも遠そうだけど行けるはずと走り出したら、なかなかに遠かった。早朝に出発して着いたのが昼過ぎで、途中から標高が高くなり気温も下がったりと疲れました。中部横断道の早期全線開通を期待します。
さて、目的地の上田城です。私がかねがね興味を持っている、「地形の特徴を活かした都市構造」の視察というツーリング目標でやってまいりました。
駐車場がある南側から櫓を望んでみると、石垣の向こうで城の地面がぐっとせり上がっているのが分かります。上田城の築城は1583年に真田昌幸の手により行われていますが、その当時、千曲川が石垣の際まで流れており(現在は城と川の間は市街地や線路になっています)、尼ヶ淵と呼ばれ、河岸段丘の上に城が築かれました。千曲川が防衛上の有効な堀として機能し、丘の上の城から東側に城下町が広がるまちづくりがなされていました。現在の市役所や中心市街地がそれにあたります。
東側の二の丸橋を渡って東虎口櫓門をくぐり、石垣に寄って南側の市街地を眺めてみると、まちが足元よりぐっと低くなっているのが分かります。周辺地域への遠目もきき、東西南北への交通の結節点として、軍事的な要衝であることも分かります。
上田盆地辺りの地形は、静岡在住の私が地図を眺めていても全く想像ができず、とはいえ歴史的には何度も重要なことが起きているためずっと気になっていましたが、やはり来てみて良かったです。人口約15万人の東信地域の拠点都市として住宅地と商業地が落ち着いていて、生活もしやすそうです。百聞は一見に如かずですね。
少し驚いたのが、昔の藩主の屋敷跡がそのまま長野県上田高校の跡地になっていること。高校がお堀に囲まれていて、この日は軽音部の部活かロックが聞こえてきました。
伝統を大事にしつつ現在の生活を大切に。いいですね。
2025年
9月
22日
月
静岡サレジオ幼稚園 保育棟建て方
9月の第二週に静岡サレジオ幼稚園保育棟の建て方を行いました。諸々全力でバタバタしていましたたが、少し落ち着いた所でご報告です。
園舎は木造で設計していまして、夏の間に製材、加工業者とプレカットや支持金物、組み方などの打ち合わせを進めてきました。
当日は大安吉日。晴天にも恵まれ、いざ、大工さんたちと建て方開始です。
木造の軸組を組んでいると、建物の構成がどのようにできていくのかよく分かります。
柱を立て、梁を架け、束を立ち上げ母屋、屋根をつくる。何より、全体をバランスよく、力の抜きどころ、固めどころを上手く調整しながら工事を進めていくのが大事ですね。
よく、木造は建物全体で地震に対応すると言いますが、作っている時からそんな感じです。
ここが建築の造形的な始まりです。
2025年
9月
21日
日
岐阜 虎渓山永保寺と近況
猛暑も和らぎ秋の風が吹きつつある9月半ば、岐阜県多治見市の虎渓山永保寺を訪れました。数年前に来た時の印象が良かったので、今回は家族を連れて多治見のタイル見学と共に足を伸ばしました。いつ来ても、静かで、清澄で、別天地のようなエリアです。
近況のご報告としては、2年前から設計していた静岡市清水区の静岡サレジオ幼稚園を、6月に着工して工事を進めています。完成は来年の3月の予定です。本体が2棟ありまして、現在1棟目の建て方が終わり、内部造作や屋根、外壁下地を施工しています。この夏は猛暑で現場でも大変でした。
現場からは、こんなに熱心に工事監理をやる設計者の人はいませんと言われましたが、とんでもない。個人事務所がこのような仕事の機会をいただき、通り一遍の工事監理なんかやってたら何の意味もありません。いい仕事をしたくてやっているんだから、やらなきゃ仕事運だって逃げていきます。構造や設備をなど、後から見えないところ、細かい所を、日々勉強の気持ちを忘れずに、当たり前にしっかりやる。
同じ敷地内にいる幼稚園の子供達や先生方が、楽しみに待っています。必ず思いに答えます。
そんな気持ちで過ごしているので、ずっと緊張していたかもしれません。清々しいリフレッシュができました。
2025年
9月
05日
金
伊豆山
熱海市の伊豆山神社に行って来ました。
JIA東海支部大会の会場が韮山の北条家ゆかりの場所なのですが、伊豆山神社が頼朝と政子にとって大切な場所ということを知り、勉強のため視察です。麓から急な階段を上っていくと、見えてきました。振り返れば熱海の美しい海が一望でき、素晴らしいロケーションです。
2021年の7月にこの伊豆山の西側で土石流災害が起き、今だ元通りになることは困難ですが、地域の方々に健やかな日常が戻ることをお祈りしました。
ちなみに、今回北条家の歴史を勉強してみようと、NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」を全話借りてきて見てみました。神社の高台で気持ちの良い風を浴び、素晴らしい海を眺めながら、何であんなに殺し合いや暗殺ばかりやってしまうのかと思い返しました。日本初の武家政権。今の世でもそうですが、政治権力を作り上げるということは本当に厳しく、幾多の欲やエゴ、何気ない残酷さが重なり合い、累々たる犠牲の後に、上澄みのように政権ができていくのかもしれません。
私たちの身の回りを考えれば、やはり平和と希望、明るい気持ちで頑張る毎日でいきたいですね。
2025年
8月
17日
日
清里フォトアートミュージアム
2025年
8月
10日
日
北大
8月の頭に息子と北大に行って来ました。
酷暑の本州を抜け出し、北国の涼しさを期待していましたが、今の日本はどこに行っても暑いですね。イチョウ並木の下の日陰がありがたいことありがたいこと。
広大で緑豊かな北大キャンパスの中には、サクシュコトニ川という小川が流れていまして、遊歩道が整備されています。
その川のほとりに緑に包まれた弓道場があり、息子は先輩を訪問。いいものですね、若者たち。私はしばし散策です。
北海道大学にも建築学科があり、建築スタジオがあるとのことで外観だけでも見てみました。
北海道は寒いから建築や住環境を勉強するのも寒冷地仕様なんだろうなと思っていましたが、全面ガラス張りでした(笑)。
もちろん内部空調等で工夫はこらしていたり、するんでしょうが、冬の熱還流率はどうでしょうか。3重ガラスを組み合わせたり実験的な取り組みをしているのかな。
温かい静岡から冬の北海道での生活を考えると、大変そうで腰が引けてしまいます。
2025年
5月
08日
木
石廊崎にて
ゴールデンウィークが終わり青空が広がったので、今しかないと思い立ち、石廊崎にツーリングに行って来ました。
南伊豆町は大好きなところで何度も行ったことがあるのですが、弓ヶ浜から石廊崎ルートは初めてでした。
青野川の右岸を海まで進み、そのまま小さな漁港や集落の様子を眺めながら、緑に包まれたワインディングロードをのんびり走ると、本当に気持ちいい!この季節のこの時、幸せです。
半島の先端を走っていくと、想像もつかなかったところに集落があったり、どうやって生活してるんだろうと思ったり興味が尽きません。
海と緑に囲まれた南伊豆ならではの、風土に根付いた生き方があるんでしょうね。
さてそんな伊豆半島ですが、本州で唯一フィリピン海プレートの上に位置しています。
約2000万年前には現在地から数百キロも南の海底火山群でした。
その後フィリピン海プレートが北上するにしたがい、火山島は本州に近づいてきて、やがて衝突。60万年前に半島になりました。
このように、伊豆半島は地質や地形から地球の営みを学ぶことができる「ジオパーク」と呼ばれており、ユネスコ世界ジオパークにも認定されています。石廊崎の海岸沿いに見られる足元のゴツゴツした岩は、溶岩が海水で急激に冷やされてできたものでした。だから複雑な地形をしており、カッチカチの硬さです。
石廊崎に着き、ビジターセンターから先端に向けて遊歩道を歩いていくと、海からかなり高さがあり風も強いので、下りていくだけでかなりドキドキです。落ちたらあの溶岩が痛そうだと変な想像ばかりしてしまいます(笑)。
急な階段を折れ曲がり、足を下すと、えっ!
・・・ナニコレ、神社?
あ、崖の中に建ってる!オイオイオイオイ足元断崖絶壁じゃん大丈夫?ヒェー!
・・・もうね、びっくりしてしまいましたよ。私が不勉強なんですかね。静岡県に住んでいて全く知りませんでした。ここまで怖い建ち方してる神社は初めて見ました。ちゃんと社務所もあるし、思わず宮司さんを心配してしまいました・・・。
この、海側から見なければ決して存在が分からない神社の名前は、石室神社。海上安全の神様を祀っておられます。建立は古く、大宝元年の701年。最近中学生の娘と社会の大宝律令(701年)を勉強したから妙な共通点です。
飛鳥時代、中央では国全体を支配する大きな決まり事を作っている時に、地方では色々な事が起きているんですね。現在の社殿はそれから明治時代の1901年に建て替えられたものというけれど、それでもやっぱりこの場所なんですね。もう灯台の存在は吹き飛んでしまいました。
ところで皆さん、波勝崎のそばにお越しの際には、ぜひこのライダースカフェにお寄りください。
カフェ&ネパールカレーのティハールさん(南伊豆町伊浜)です。
ライダーにとっては、そろそろ休憩したいという絶妙な場所にあり、親切な店員さんのおかげでゆっくりくつろぐことができ、ちょっと豊かな時間を過ごせて良かったなと走り出せるお店でした。夕日ヶ丘展望広場の向かいなので、公園側に安全にバイクを駐められることもでき安心です。
2025年
4月
26日
土
とある空間
時々行きたくなるこの空間。展示室からホールへつながる、確かめたくなるこの視界。
決して大きくはないけれど、トップライトからの明かりが建築を支える柱を照らし空間を示せば、その奥でゆとりと広さを感じさせるスロープに期待がふくらみ、上階の小空間との連動性が出会いの面白さを感じさせてくれます。
ここは国立西洋美術館の展示室エントランスホールです。設計はル・コルビュジェですね。
彼の作品は学生時代模型を作ってみたりしたけれど、やっぱり中に入ってみるのが一番です。
今日は中学に入った娘が、美術部に入ったとのことで連れて来てみました。この美術館の成り立ち、時代背景、戦後のフランスから日本への美術品返還条件などを話してみたりして、少しずつ美術の窓から社会を覗いてもらいたいなと思う父でした。
2025年
3月
26日
水
韮山・伊豆長岡
本日はJIA建築家協会のメンバーと韮山、伊豆長岡を訪れました。東海支部の支部大会候補地として視察を行いました。この辺りは平安の末期から突如として日本史に現れ、日本の歴史を転換させてきた場所として歴史通には有名です。いや、歴史通でなくても知っていますね、まずは源頼朝。彼が平氏との戦いに敗れ流されたのが韮山の蛭が小島という場所(現在は田んぼの中の公園)でした。伊豆半島の北部の田方平野は大昔は海が入り込む入江だったようで、その地形の影響で平野を流れる狩野川は、太平洋側で唯一北上する一級河川となっています。当時の河川ですので、ご多分に漏れず何度も流れを変えていたため、川の位置も今とは違い頼朝がいた場所が河の側でした。あまり環境が良くない場所に意地悪で居させたんでしょうね、なんせ蛭ですから。
まあそんな意地悪に耐え、辛抱を重ねて地元の豪族北条氏の娘と結ばれ、挙兵したのは有名な話。なのでこのあたりに、鎌倉幕府初代執権北条時政が建立した願成就院という由緒あるお寺があります。国宝もありますので是非水曜日以外にお越しください(私たちは水曜日にあたってしまいました…)。
またその近くには、室町時代末期に置かれていた堀越御所がありました。それを駿河の興国寺城城主で今川家当主の叔父だった伊勢盛時が攻め滅ぼし、後に北条早雲と名乗って伊豆を納め、ここを拠点に相模や武蔵を攻め、関東支配を目指していきました。
ちなみになんで北条と名乗ったかというと、実は鎌倉幕府が瓦解したときに、北条家の女性や関係者達が鎌倉から韮山に引き上げてきており、北条コミュニティが密かにあったわけですね。国政からは落ちぶれたとはいえ、土地の人にとっては貴人ですから信用は大きい。一方で伊勢氏は元々備前の国に所領をもつ足利幕府の高官でしたから、伊豆という地に根付くために、郷に入りては郷に従えの一番強烈な改名を行ったんですね。その後の北条家5代100年の歴史は言うまでもありません。そんなわけで、同じ静岡と言えど、このあたりの人は昔から関東志向なのでした。
そして時は下り幕末。今一度韮山に注目が集まります。幕府の韮山代官(伊豆国、駿河国、相模国、武蔵国、甲斐国の幕府直轄領を管轄)の江川太郎左衛門が開国動乱の中で国防政策を建議し、お台場に砲台を据えるため、韮山で大砲を造ることになりました。韮山反射炉です。鉄から大砲を鋳造するための装置ですね。日本には長州の萩にもありますが、明治日本の産業革命遺産の構成資産の一つとして、世界遺産に登録されています。写真の屋敷は江川邸ですが、大河ドラマ篤姫の撮影でも使われました。
このあたりは本当にのんびりしていいところなんですよ。穏やかな気候の田方平野のなかでイチゴ栽培なんかして、西に行けばすぐ沼津のマリーナだし、東の山の上は別荘地だし、更に超えれば伊東で温泉があるし。南に行けば修善寺、天城湯ヶ島ですしね。史跡を巡ってみたり、地形や位置関係を考えてみて、やはり伊豆を納めるなら昔からこの辺りが中心だったんだなあと納得しました。
午後は、長岡の三養荘を視察しました。
昭和4年に旧三菱財閥岩崎家の別邸として置かれ、戦後に旅館として開業。以来、上皇陛下、天皇陛下のご宿泊を度々賜り歴史を重ねてきた、格式ある湯治場です。
また、昭和63年には、建築家村野藤吾設計による新館が完成。村野氏が90歳を超えて自分の全てを注ぎ込んだことでも知られています。
限られた視察ではありましたが、建築の細部に触れるだけで本当に勉強になりました。
庭と地形と建築の調和が見事でした。
2025年
1月
11日
土
糸魚川静岡構造線
博識な皆さんは、この写真だけで分かるかもしれません。
ここは南アルプスの渓谷を流れる早川の河床。国の天然記念物、新倉の糸魚川静岡構造線です。ここは日本列島を東北日本と南西日本に二分する、フォッサマグナ(大きな溝)の西辺を示す場として、中学校理科でも取り上げられる場所です。
な、なるほど。その目で見なければ分かりませんね。後からグーグルアースで列島上空から確かめてみましたが、南アルプスの渓谷を分け入っていくとそう見えますね。不勉強でした。
とはいえこの辺り、今現在トラックの往来が激しいです。そう、リニアの工事で早川もだいぶ濁っています。バイクも晴れにも関わらず道路を走っているだけで足元がかなり汚れました(泣)。
環境について注目されるいい機会ですから、こういう自然史についても目に触れる機会が増えるといいですね。
2024年
11月
27日
水
山梨県早川町赤沢宿
山梨県早川町の赤沢宿を訪れました。国指定重要伝統的建造物保存地区です。身延山から七面山をつなぐ巡礼の道の途中にある講中宿(同じ信仰を持つ人々で構成された宿)として、江戸初期から戦後にかけて参詣客で賑わいました。今では石畳が往時を偲ばせています。
木々が色づく中、天気も良く気持ちの良いツーリングでした。静岡から身延山を訪れるだけでも感銘を受けていたのですが、その後ろ側にこれだけ歴史のある背景を持つ営みがあったとは。いやはや不勉強でした。
石畳を歩いてみると、これは身延でも思ったことですが、大変な労力を払い、街道を作り上げてきたのだと感じます。私は建築や集落を見る側で来ていますが、信仰の力は大きなものですね。
日本の中央に、パワースポットあり、ですね。
2024年
10月
14日
月
井伊谷、龍潭寺
秋晴れの三連休。皆さんいかがお過ごしでしょうか。気になっていたけど行ったことなかった場所に行こうシリーズが続いています。
今回は浜名湖の湖北地域。井伊谷城と井伊家の菩提寺である龍潭寺を訪れました。
今から7年前に「女城主直虎」という大河ドラマの舞台になりました。
と言っても私自身ドラマは見たことなくて、気になっていたきっかけは、山岡荘八の徳川家康で、家康が井伊家の遺児はどうしているのかと、ぼそっと気にかけている場面が頭に焼き付いていたからでした。
当時の井伊家は、当主直盛が桶狭間の戦いで討死した後、跡を継いだ従兄弟の直親が謀殺され、その子供の直政(後の徳川四天王)に身の危険が生じる非常事態。その難局を直盛の一人娘の次郎法師が直虎と名乗り、直政の後見人を務め乗り切ったという状況でした。
この場面を読んだのは確か自分が高校生くらいだったと思うけど、ああ家康も祖父を家臣に殺されるわ、父は織田との戦いに明け暮れ最後は織田の刺客に殺されるわ、自分はその最中に今川への人質に送られ、裏切りに会い織田の人質になるわと悲劇のオンパレードで、弱い者の苦しみをこれでもかと味わっていたから、他人事じゃなかったんだなぁと思ったものでした。
今日はそれがどこで起きていたのか確認したく、現地の城跡に登って、領内を一望してみました。山を背に、南に向かっての景色です。
見通しが良く、ゆったりと大きな手のひらで包まれるようなおおらかな景色です。
井伊家は平安時代の在庁官人として始まり、中世には国人領主として現浜松市の北部一帯(都田、引佐、細江など)を治め、南北朝の動乱の時代には、後醍醐天皇の第四皇子「宗良親王」を迎え南朝方として活動しました。戦国時代に各勢力の間で大きく翻弄されましたが、徳川臣従後は井伊直正が活躍し、江戸時代に彦根に移り、幕末の大老井伊直弼を輩出しました。歴史的な家です。
右手前の森が、井伊谷宮(宗良親王が御祭神)と龍潭寺(井伊家の菩提寺)のエリア。
その向こうに東西に森があり、さらに奥が全体的に高台のようになっているのが分かるでしょうか。その高台が、三方原台地の北端になるかと思います。ちなみに写真左の遠方に高いビルがありますが、浜松駅前のアクトタワーですね。
試しに下の地図に概略を書き込んでみましたが、赤線が三方原台地の位置、黄色い丸が井伊家のおよその支配領域です。三方原台地の東側は天竜川で削られてできたのは有名ですが、北端はこの辺りを流れる都田川に削られ形成されています。西側は浜名湖ですね。
井伊谷宮では撮影を控えましたが、歩いていたら大きな木の実が頭に落ちてきました。
こんなこと今まで記憶にありません(笑)。
近くのおじさんもびっくりしていました。
さて、気を取り直して龍潭寺の境内に足を踏み入れました。緑や石畳が美しいですね。
入口の山門は現在保存修復工事をしていますが、来年の夏頃には終わる予定だそうです。
またここは次郎法師が出家した寺でもあります。この辺りのお家事情は入り組んでいますので、興味がある方はお寺のHPでどうぞ。
龍潭寺本堂南側の庭は、「補陀落の庭」と呼ばれています。補陀落はインドの南端にある観音霊場。白砂の五本が浜名湖のようです。
また堂内の廊下は、音鳴りのする鶯張り廊下です。外部侵入者に対する危険探知のため、京都の二条城や知恩院で有名ですね。
この本堂も江戸時代前期に井伊家の寄進により再建されたとのこと。まだまだ不安定な時代、苦労してきた井伊家の武門としての意識が、そうさせたのかもしれません。
二階建ての楼閣は、歴代住職の御霊を祀る開山堂(1702年建立)です。庭を愛でながら渡り廊下を歩けるよう配慮されています。この裏の方に井伊家の墓所があるのですが、敷地全体のどこに行っても、庭と建築が一体となった美しさ、落ち着きがあり、素晴らしい空間だと思いました。
本堂の裏側には、国指定名勝である小堀遠州作「龍潭寺庭園」があります。本日の大きな目的でもあります。秋晴れの中、ゆっくりと眺められて、本当に幸せでした。
庭は、本堂に沿い心字池を配し、その向こうに池に沿って築山が設けられています。中央には、ご本尊様から真っすぐ線を引いた位置に守護石、左右にそれを守る仁王石、手前正面に礼拝石が配置されています。
庭の解釈について、いろいろと語る事は必要ないのでしょう。
訪れ眺める人の心のままに感じ取ることができるものと察しました。
龍潭寺は臨済宗妙心寺派の禅寺です。
静かな心で向かい合えるとても良い時間を過ごさせていただきました。
ありがとうございました。
2024年
10月
06日
日
身延山久遠寺
静岡市清水区から山梨県甲府市を結ぶ国道52号線は、古くから駿河国と甲斐国をつなぐ重要な街道でして、駿河側からは甲州往還、甲斐側から駿州往還などと呼ばれていました。
そしてこの道はまた、身延山久遠寺への参詣道として利用されたことから、身延路とも呼ばれていました。位置的には、山梨県の下側が静岡側に食い込んでいる部分の真ん中あたりでしょうか。
日蓮宗総本山の由緒あるお寺です。今から750年前(1274年)に開創され、長きに渡り連綿と歴史を紡いで参られました。
私自身この街道は今まで何度も往復してきましたが、街道から門前町方向に入ったことは一度も無かったため、初めて訪れてみることにしました。
ちなみに参道は県道804号という公道ですが、寺域の入口で県道の上に久遠寺の総門がドーンと構えています。何しろ山梨県の成立より古くからありますから。ここはそういう所です。
総門から気をつけながら車を走らせること5分、近くに駐車させていただいて、三門に到着です。ここから境内が始まります。「空」「無相」「無願」の三解脱をあらわす三門。その造りはとても立派で、張り出した庇を支える組手の数々、柱梁の彫刻や迫力に圧倒されます。
三門を抜けると、石畳の参道が始まります。石畳といっても、ゴロゴロとした荒々しい石畳で、両脇にそびえる樹木は天を衝く勢いです。慎重に、地面を踏みしめながら歩いてみて、このサイズの石でつくられた道は少し不思議な感じがしました。何て言うのかな、人生なんでもスムーズにはいかない凸凹した感じをイメージさせるような。今時転びにくい仕上げにすることは簡単ですが、この仕上げに留めて置く事に、何かしらの意味があるのかもしれません。
さて写真の奥に石段が見えると思いますが、遠目ではもう壁にしか見えません(笑)。
菩提梯という、本堂へと続く287段の石段です。一段25センチはあり、途中まで登ると怖くて後ろは向けません。「よいしょ、よいしょ」と次の一歩を出すことに必死でした。
登り切れば涅槃に達するという意味の梯ですから、そう安くはありませんね。体の弱い方は本当にお控え下さい。
登りきると左側に五重塔がそびえていました。
明治8年の大火で焼失したものが、2009年に134年ぶりに再建されました。
皆さん、早いけど私は言いたい。日本中に五重塔は数あれど、山の上に建てるのがどれほど大変か。私の足は既に攣りそうです。
機械や車もない時代、まして集成材なんかない無垢の一本物の巨大な木材の数々を、高所に運ぶのがどれほど大変か。口が開いてしまいましたが、それも修行ということでしょうか…。
正面には1500人の法要を一度に奉行できる本堂、その右隣に日蓮聖人の神霊を祀る祖師堂が並びます。内部は写真を控えましたので、現地で見ていただくのが良いと思いますが、重厚でとても立派な作りです。素材の数々が本当に凄く、総本山としての格式を実感しました。
参詣後の良く歩いた体には、身延まんじゅうの甘さが沁み入ります。近くをお通りの際は、是非一度お立ち寄り下さい。
2024年
9月
22日
日
金沢・鈴木大拙館
2024年
9月
21日
土
富山・高志の国文学館
高志の国、こしのくに。7世紀頃まで、北陸地方は高志国と表記され、それが越国(こしのくに)に引き継がれ、越前、越中、越後と分かれていったとか。
さて、越前富山にやってきました。この文学館の壁材は、富山の基幹産業であるアルミ鋳物パネルでできており、シャンパンゴールドに着色されアルマイト処理された壁材が、外壁から内壁まで使われています。不思議なテクスチャーですね。この日は曇りでしたが、光の当たり方で見え方が色々変化するのかもしれません。
この建物は富山市中心部に位置し、目の前に松川という小川が流れています。その昔、富山市の中心部を流れる神通川は富山駅を囲うように蛇行して流れており、河川の氾濫被害が起きたようでした。それをまっすぐにする工事を行い、名残として松川が残り、現在は川沿いに遊歩道が整備されています。
本州の反対側の静岡から来てみると、川が思いっきり北に流れているので、はじめはよく分かりませんでした。グーグルマップで見ると表現が逆。こちらでは山(南)を上に書くんですね。
富山にゆかりのある文学者の方々の展示がされています。宮本輝もありました。初期の代表作の蛍川は、一家で大阪から富山に引っ越してきた一時期を描いた作品でしたね。泥の河、蛍川、道頓堀川で川三部作と呼ばれました。10代から20代にかけてよく読んだことを覚えています。生原稿も少しあり、万年筆で書かれた文字を見ることができました。宮本氏は「か」に特徴があるようです。
建物は、隣に元々あった旧知事公館を改修してつなげ、研修室等で一体的に使えるようにもなっています。
2024年
9月
18日
水
YKK黒部事業所
9月18日~19日に、JIAの研修ツアーで北陸地方を回って来ました。
初日は富山県黒部市。ここには日本最大手のファスナー、アルミ建材事業を営むYKK、YKKapの黒部事業所があります。
黒部川の豊富な水と、黒部ダムの巨大な電力(黒部市の電力使用量の半分はYKK関連が占めています)を用い、アルミ建材の製造、製品開発、環境住宅(パッシブタウン)を展開しており、建築家協会の仲間達と半日かけて勉強してきました。
事業会社であるため、撮影できない部分も当然多かったのですが、普段気軽に使っているアルミサッシなどの製品が、こういう工程でできているのかということがよく分かりました。アルミの型材を造るのは大変な仕事だと実感し、大事に使わなければいけないなぁと腹に沁みました。
一連の写真はパッシブタウンのものです。東京から転勤してくる社員のために、黒部の地下水や「あいの風(日本海沿岸で夏に北東から吹く海風)」を利用して設計した社宅(一般利用も可)です。黒部市の景観は田園が広がる穏やかな土地柄。緑に包まれ、建物間に小道を通し、あいの風が吹き抜けるよう間隔を空けて配置された建物群を、ゆっくりと見学させていただきました。
一生懸命説明して下さった担当の皆様、本当にありがとうございました。勉強になりました。
熱い鋳造工場から出てきた時に、あいの風を実感しましたよ(笑)。
2024年
9月
16日
月
秋葉山本宮秋葉神社
浜松市天竜区春野町にある、秋葉山本宮秋葉神社上社をご存じでしょうか。ここは全国の秋葉神社の総本山。赤石山脈の南端が遠州平野に突き出た部分の山頂に位置し、遠く太平洋まで見渡せる、創建は和銅2年(西暦709年)の由緒ある神社です。
YAMAHAに行った後、少し走りたくなったので天竜スーパー林道を標高866mまで駆け上がって来ましたが、僕も初めてです。すみません。知っていたけど行けてないところ巡りをしています(笑)。以前、下社までいって上社に回ろうとしたら、大雨で山肌が緩んで通行止めになってしまっていたので、今回は天竜川の船明ダムを北上した正規のルートで再チャレンジです。
こちらでは火防の神様を祀っておられまして、石畳の階段手摺の寄贈者名をよく見ると、鉄工や建設、消防関係など、火を扱う全国の方々のお名前が見えました。
この日は午後曇ってしまったのですが、パワースポットであることが十分伝わりました(笑)。
おみくじによると「問題解決は慎重に」と。はい、慎重に慎重に様子を見てきたある事を、そろそろ解決しましょうと、小さな決意を胸に下山しました。
2024年
9月
15日
日
YAMAHAへ
ところで皆さんはYAMAHAのバイクを製造しているヤマハ発動機という会社がどこにあるかご存じでしょうか。静岡県磐田市にありまして、Jリーグのサッカーチーム、ジュビロ磐田のメインスポンサーであり、会社の目の前にスタジアムがあります。
この本社にヤマハコミュニケーションプラザという、歴代のヤマハのバイクを中心とした展示を行っている素晴らしいミュージアムがあり、今回初めて行って来ました。まったくの趣味の世界ですのですみません。
もうね、ほんと天国(笑)。
世の中には、外国車もあれば国産もあり、速いものもあれば大きなものも取り回しの良いものも色々なバイクがあるわけですが、僕は昔からなぜかYAMAHAが好きですね~。
デザインが、違うというか。それぞれの存在意義や背景、目的をデザインに落とし込むことが優れているので、一目見て記憶に残るものが多いと思っています。
うちの家族を連れてきても誰も共感しないと思い一人で来たのですが、結構皆さん子供も連れてきてます。親が、自分の世界を理解させようと(笑)。でもいいですよね、いいものに触れるのに理由はなんでもいいですから。みんな目がキラキラしていて、親愛なる同志の心境です。
2階には、ヤマハ発動機創業の歴史(元々は浜松のピアノ事業を主とする日本楽器製造株式会社です)から、レース参戦の歴史、これまでの名車の数々が展示されており、ジーンとしてしまいましたので、写真を載せちゃいます。こういうところが地元にあるって、いいな~と感じました。
2024年
9月
08日
日
西伊豆ツーリング
伊豆をバイクで走るなら、気持ちいいのは西伊豆だと思う。ということで、西伊豆スカイラインで伊豆半島西側を走ってきました。
稜線の上を達磨山から南下して、西天城高原で小休憩。宇久須の港の方を望みながら、バイカーソフトクリームデビューです(笑)。
いやいや本当に木立に包まれた素晴らしい道で、吹き抜ける風も気持ち良く、下界とは大違い。ドラテクが凄いバイカーさんも中にはいますが、僕は景色を楽しみながらのツーリング。癒されますね。
西伊豆町で疲れた体を癒すならば、堂ヶ島辺りのリッチなホテルでひと時を。ではなくて、駿河湾に面した断崖絶壁の上の露天風呂一択です(笑)。
ご存じ、沢田公園露天風呂では、絶景を独り占めできちゃいます。堂ヶ島クルーズの観光船の方々が、僕が腰かけているとぞろぞろ出てきて見上げていましたね。まあ上半身が見えてもなんてことないですから、熱中症にならないよう波の音だけ聞いていました。
堂ヶ島の地形って本当に不思議というか、自然の風と海に浸食された砂岩の崖を何度来ても見入ってしまいます。ここまで来るのに何千年もかかってきたのかな。海の青と映えますね。
西伊豆はどこを走っても美しくて、静岡の地形を知るのにもってこいなのですが、いつの間にか時間が経ってしまうと、ここから静岡市に帰りつくまでに3時間。そう、遠いんです。皆さんも時間には計画的に楽しみましょう(笑)。
2024年
8月
31日
土
南八ヶ岳
本当に暑い夏、皆さんはどんな夏休みをすごしましたか。
私はとりあえず涼しい所を目指し、八ヶ岳南麓に娘や姪っ子達と行って来ました。標高1400mの世界の気温は27度くらい。38度の下界と比べてとても過ごしやすかったです。
山梨県立まきば公園では、雄大な眺望が楽しめました。ヒツジや山羊にも触れることができ、子供たちは嬉しそうでした。日常から解放され、癒されていましたね。何度も何度もナデナデ、もにゅもにゅ…(笑)。
散策や食事に訪れた八ヶ岳倶楽部は、人と自然が八ヶ岳の森の中で仲良くなれる、
木漏れ日に溢れた、とても気持ちのいい場所でした。
カフェレストラン、ギャラリー、ステージ、森の散策路が敷地内にあり、
木々の一本一本がよく手をかけられているので、施設と自然が調和しています。
この日はフィンランドの織物の展示をしており、きれいな敷物を一品購入させていただきました。
この施設は、某俳優の方が今から35年ほど前に開き、その方は日本野鳥の会名誉会長も務めていました。末娘は、小鳥の鳴き声を出せる木のおもちゃ(というには本当に本格的な声が出せます)に夢中で、どうしてもそれを欲しがったので購入し、小道の中で鳴らしていたら、他のお客さんが「鳥がいる!」「近いよ」「どこどこ?」と探し始めてしまったので、その目に嘘がつけず、正直に白状しました(笑)。黙っていてもよかったんでしょうけどね。
でも鳴らしている自分達も本当に鳥がいるように感じてしまう空気感でした。
色々なところから集まって来ているスタッフの方々も優しくて、
八ヶ岳の世界が好きなんだな~ということがよく分かりました。
暑い暑いと干上がっていましたが、大事な心の潤いを感じました(笑)
2024年
8月
03日
土
紙コップタワーをつくろう!in焼津東益津
8月3日(土)に、焼津市の東益津地域交流センターにて建築ワークショップを行ってきました。
コロナやインフルエンザが流行るとできない企画でしたが、焼津市さんから何度もお声がけいただいており、今回は無事開催!みんなで楽しんで行うことができました。
今回は地域のボランティアの方々がお手伝いをして下さり、子供達へのサマーフェスティバル企画ということで、みんな楽しみにしていてくれたようです。
私の方から建築レクチャー、ワークショップの意図を話した後は、簡単にやり方を伝授して制作へ。どの子も積極的にどんどんつくり、失敗しても再チャレンジで完成!周りを大事にする姿もとても立派でした。みんな笑顔で気持ちよく、充実した時間でした!
2024年
8月
01日
木
仙台へ
こんにちは。暑い日が続きますが皆さんいかがお過ごしでしょうか。私は一昨日から二日間、息子と大学のオープンキャンパスに参加するため仙台に行ってきました。
昼過ぎまで仕事をし、午後の新幹線ひかりで名古屋に行って息子を迎え、それからのぞみで東京、はやぶさで仙台なので、なかなかの移動距離。息子も部活の試合で疲れて車中は寝ていました。
さて、夜9時過ぎの定禅寺通り、この建物はなんだか分かりますか?建築通なら知っているかもしれません。四角い建物を縦に貫くチューブ状のフレーム構造が特徴的な、仙台の美術や映像文化の拠点、せんだいメディアテークです。
21世紀の始まりと共に産声を上げ四半世紀近く経ちました。私も15年前に一度来ていますが、運営する側が文化の交流と成長の意識を常に持ち続けているので、今でも斬新な魅力がありますね。1995年にコンペで建築家伊藤豊雄氏の設計案が採用された時の、建築界に与えた衝撃は大きかったことを覚えています。今では仙台・東北の建築の知の拠点として根付き、幅広く活用されています。こうしてみると、夏の夜の静かな雰囲気もいいもんですね。
2024年
5月
27日
月
奥三河 田峰城
長篠城から、武田勝頼の敗走ルートの豊川沿いを確かめながら北上して走り(なんかひどい)、深い木立の間を抜けて設楽町田峯の集落にやってきました。ここは長篠の合戦にも参戦した山家三方衆の一つ、田峯菅沼氏が居城を構えていた場所でもあります。街道からは見えない高所にあり、さながら隠れ里のような雰囲気の中で人々が生活しています。天空のカルデラのようです。
さて、ここまで長く走ってきたので、休憩に田峯観音の敷地内にある、だみねテラスにお邪魔しました。テラス席に腰かけ、ほっと一息つくと美味しいコーヒーが体に沁み入ります。田峯茶の羊羹も美味しかったですね。オートバイに優しいライダースカフェのようなスタイルで、見晴らしもいいし最高ですね。
遠く山並みを眺めていると、なぜか私のラインに高校総体弓道静岡県大会の様子が息子から逐次送られて来る(笑)。選手でなく応援に行っているようですが、いろいろな上位選手の射を見れることが刺激になるらしくハマっているようです。
私も高校時代に弓道をやっていたけど、息子ほど向き合えていなかった気がします。途中からはケガもあって思うようにやれず不完全燃焼で終わってしまったし。だから上手くいかなくても夢中になっている息子をなるべく温かく見守っています。ケガをせずじっくりとやってくれればいいと。
田峯観音へのお参りを済ませ、集落の反対側にある田峯城の方へと向かいます。ところで山家三方衆を知っていたら、なかなかの歴史通でしょうか。田峯の菅沼氏、長篠の菅沼氏、作手の奥平氏。大河ドラマで出てきたかもしれませんが、私が知ったのは今から15年ほど前、行きつけの眼科の待合室で横山光輝著の武田勝頼の漫画を読んだからでした。国境は勢力争いの地ということで、武田と徳川の間で翻弄され、情勢次第で各陣営に分かれ、中々に無残で可哀そうな事が起きながらも生き抜かなければいけない小勢力を知りました。その後本や地図でその名を目にする度に、どんな場所でどんな生活をしているのか、どんな地域なのかと気になっていきました。
信州に近く武田の勢力圏内であったため、当主の菅沼定忠は山家三方衆で唯一武田方で長篠の合戦に出陣しましたが、武田大敗の報を受けた留守居の叔父と家老の謀反にあって帰城できず、信州に敗走を余儀なくされてしまいました。恭順を示すための手のひら返しとはいえ、辛いですね。その後一族には悲劇が起こり、7年後に廃城となりました。
田峯城の建築は、当時の武家屋敷を偲ばせる書院造の様式で復元されています。位置的には、寒挟川の渓流をはるかに見下ろす標高387mの独立丘陵にある山城です。現在は樹木が茂り足元を見下ろすことはできませんが、当時は本丸から見下ろした寒挟川の蛇行と城をいただく山並が大蛇の様であることから、蛇頭城とも呼ばれていたようです。
堀や曲輪なども小さいながらに起伏がある造りでして、こういう立体的な動きを現代の幼稚園や小学校に取り入れても面白いと思います。今の子たちは、足腰が弱くて手の力もなく、すぐケガをしてしまうとクライアントの先生方が嘆いていました。トレイルランのように、三次元のねじれの動きを生活に取り入れていた昔の人は(防御用だとしても)、やはり鍛えられていたことでしょう。
2024年
5月
27日
月
長篠、設楽原
今まで静岡から名古屋に行く時にずっと素通りしてきた奥三河へ初めて行ってきました。まずはその入口でもある、ずっと地形を確かめてみたかった場所へ。丘陵に挟まれた南北に狭いこの土地は、一体どこでしょう。
中央に小川が流れており、田畑の中に住居が散在し、農作業のかたわらで、のんびりと野焼きも行われていました。その現在の姿とは裏腹に、ここは今から450年前、日本史上最も激烈な戦いが行われた場所、設楽原です。織田徳川連合軍と武田勝頼軍の戦いです。
近世日本史の大転換点となった衝撃的な合戦ですから、ご存じの方も多いはず。屏風絵にも描かれた、中央の連吾川を挟んで両軍が対峙しました。右が武田、左が織田徳川。ただ、今まで小説や本を読んでもいまいち雰囲気的にピンと来ず、いくら鉄砲が大量にあったからって何で武田がそう簡単に負けるのかなと思っていたのですが、実際に訪れてみてその理由がよく分かりました。
この地形、全然「原」じゃないんです。連吾川の両岸が削られて河岸段丘のようになっており、武田軍から見て馬防策に行くまでにガタガタ下りて、川を渡ってガタガタ登らなければいけないんです。一番底に下りた時が一番無防備で狙い撃ち。これ騎馬戦ではなく、攻城戦ですね。まったく。ということは、武田軍に求められていたのはナポレオンが得意としていたような大砲の技術。信長と家康に地名から錯覚させられ、機動力が発揮できない地にまんまと引きずり込まれたようです。今でこそ田畑でそれなりに整地されてますが、昔はもっと川岸が荒れているはずですからね。
織田徳川陣営の馬防柵から武田川の陣地を見ると、こんなに見下ろす感じ。
向いの林になっているあたりが武田軍の本営で、数万の兵どうしが戦ったというにはあまりに近い。騎馬戦を行おうとは考えられないほど地形が狭く(皆さん、川中島の大平野を想像してはいけません。ここで魚鱗の陣とか鶴翼の陣なんて、ほんとありえませんから)、一旦向き合っちゃったら、逃げたら追いかけられることが怖くて、引くに引けなく突っ込んじゃったんだなあと思いました。う~ん。
この戦の7年後、武田家は滅亡します。信玄を支えた多くの重臣を失い、新しい力を築くことはできませんでした。それでも信長は武田を侮る事なかれと武田攻めを7年待ちました。
武田勝頼も父との世代交代時に人間関係とか色々あったかもしれないけど、父の重臣たちのいい意見は技術的意見として取り入れて、ゆっくり新時代の力を養う「待つ力」を持てていたら、違っていたのかもしれませんね。
※私の相棒のバイク、YAMAHAのYZF-R25(限定オレンジ)です。
2024年
3月
03日
日
笛吹川フルーツ公園
3月に入り、春らしくなってきました。今日は少しドライブして山梨県の笛吹川フルーツ公園にやってきました。ガラスのドームは建築家の長谷川逸子さんの設計です。
甲府盆地の北側斜面に位置し、山麓を流れる笛吹川の向こうに盆地を一望できるロケーション。3つのガラスのドームは、斜面の高低差を巧みに利用して配置され、山梨県の果樹栽培やワインの歴史や展示空間、イベント空間が設計されていました。
実は今回の目的は、子供の屋外遊具や動的な空間。現在設計中の幼児施設の参考になればと思い、幼稚園に通う娘を連れてやってきました。一度遊び始めると、なかなか帰ってきません。
今日は私の誕生日なのに、仕事のことも考えている。えらいでしょ、と自分を褒めてみる(笑)。
静岡県の人にとって、この眺めはなかなか経験する風景ではないんです。あの山の向こうに、山中湖、さらに行って御殿場がある感じでしょうか。山裾を目で追うと、甲府盆地の縁の部分を認識できました。
実は数年前、建築家協会で発行している冊子の表紙に、井上靖の小説の表紙の写真を掲載したことがありました。この本は自分の私物で、手にしてから何十年も経ちます。物語の中に広がる空間と時間を小説として巧みに設計しており、興味が尽きず何度も読み返してきました。
ただ一つだけずっと気になっていたのが、表紙の山の絵の寂しさ。甲斐の国の山は本当にこんな感じなのだろうか。駿河の国にいると、冬でもこんな山は見たことがありません。針葉樹に覆われ、常に青々としているからです。しかし今回初めて納得しました。同じだ。あの山塊に囲まれていたから、信玄達は外へ出たいと渇望していたのでしょうね。
2023年
12月
24日
日
虎渓山 永保寺
カトリック多治見教会の裏側に、土岐川がぐるっと湾曲している地があり、そのほとりの虎渓山に永保寺があります。
鎌倉時代の1313年に開創された、臨済宗南禅寺派の禅寺です。
土岐と聞くと、美濃国にいるんだなと感じますね。斎藤道三より前に美濃を統治していた土岐氏を思い起こします。
さてこの時期(11月11日)は、紅葉もうっすらと始まり、広い境内には美しい景観を求め多くの人が参詣していました。
広い境内には多くの建物があります。中央に池泉回遊式の国指定名勝庭園があり、その畔に国宝観音堂があります。
1314年夢窓国師が虎渓に来られた翌年に建立されたとされ、禅宗伽藍の中では一番大切な仏殿です。屋根先端の反りに大きな特徴があるのが見て取れると思います。
別名で水月場とも呼ばれていました。確かにここから正面の池に映る月の姿を眺めたら、さぞ美しいことでしょう。
池を西に回りながら散策していくと、国宝の開山堂が見えてきました。
1352年頃に足利尊氏が建立したといわれ、純正唐様ともいうべく、室町時代初期の代表的な建築です。
中には入ることができませんでしたが、裏側の祠堂には、開祖夢窓国師開山仏徳禅師の坐像が安置されているとのことでした。
この美しい寺も、長い歴史の中で色々な困難がありました。南北朝の動乱に巻き込まれ、荒れていた寺を見かねた足利家が保護し、次の時代の人々が努力を重ね、現在に至っています。
2023年
12月
16日
土
カトリック多治見教会
中山道に近い多治見の地では、出荷しやすいように軽い盃を中心に磁器生産が行われていたと解説を聞きながら、カトリック多治見教会にやってまいりました。1930年にドイツ人のモール神父により、日本の修道士養成を目的に建てられた修道院です。木造で老朽化もしてきましたが、多治見市観光協会を中心に保存活動が始まっています。
木造の聖堂は天井の高い開放的な空間でしたが、ちょうどお祈りをしている方もあり、撮影は控えました。木造軸組でよくスパンをとばしているなあと感心しました。
敷地内には広大なぶどう畑があり、ここでワイン用のぶどうを栽培し地下室で醸造しています。いろいろな式典で用いられるとともに、来訪者が求めることもできます。
この建物は、カトリック神言修道会の多治見修道院というのが正式な名称で、神言会が設立した南山学園とも深い関係にあります。キリスト教的価値観の中で学び、文化を創っていくという考えが中京地域の中で連綿とつながっているのだなあと実感しました。
カトリックといえば、ルルドをご存知でしょうか。聖母マリアが洞窟の中で祈る姿を祀ったものです。本来は泉のそばに設けることがベストですが、静岡でも多治見でもカトリックに関係する施設では見ることができました。
また施設の裏側にはログハウスが数棟。修道士や一般の方が集い、研修にも使われているようでした。
日本では男子修道院は数少ないと聞きます。大切にされてきた信仰の場が保存され、活用されていくことを期待します。
一級建築士事務所 八木紀彰建築設計事務所/YAGI NORIAKI ARCHITECT STUDIO























































































































































































































