島根紀行その3

角を曲がったら見えてきた。旧島根県立博物館(現島根県庁第三分庁舎)だ。

島根といえば、田部さんと菊竹さんに触れなければならない。

 

田部長右衛門。日本一の山林大地主であった田部家第23代当主。衆議院議員、島根県知事を歴任し、さらに竹下登元首相の支援者としても有名な、まさに島根のドン!

 

そして建築家・菊竹清訓。昭和30年台、メタボリズムの思想で世界的に注目を集めていた新進気鋭の建築家。縁あって若干28歳の彼をこの建物の設計者に抜擢したのが何を隠そう田部さんだ。

島根にとっても県の文化行政を象徴する建物。周囲はその度量の広さに驚嘆したらしい・・・。

 

久留米出身で筑後川の氾濫をたびたび経験していた菊竹さんは、同様に水害の多い松江で収蔵品を守るため、収蔵スペースを上に持ち上げ集会室やホールを下に配した空間を提案。

 

そしてこの建築のコンセプトを、日本人になじみの深い「くら」と「ざしき」という言葉で説明した。外から見ても何をやろうとしていたかすぐ分かる、明快でシンプルな構成だ。

 

北側のバルコニーから目をやると、県庁庭園越しに松江城が正面に見える。スカッとして毎日見ても飽きなそうだ。

実際この建物にも、松江城を意識して内壁にいぶし瓦貼りが施されていたり、矢狭間を模して小窓を切ってあったりと、菊竹さんが松江城を強く意識していたあとが見えて微笑ましい。

 

でも鉄筋コンクリートで形も四角だし全然違うじゃない・・・と思う人も多いだろう。

 

しかしこの時代の建築、日本のモダニズム建築では、美の拠り所を日本独自の伝統的な木造建築の構造美においていた。法隆寺や国宝の建物を思い浮かべてみてもいい。

 

素材は違っても、軸組の配列、均整のとれたプロポーション、細部の完成度を厳しく追い求める姿勢は変わらない。

そして何より、柱一本一本を御神木並に敬う姿勢があった。いま見ても妙に迫力がある。もちろん現代だってあるんだけれど、当時は建築が少ない。つまりそれを作る人の息吹が生々しいのだ・・・。

 

とかなんとか考えながら、お城に登ってみた。街があって、宍道湖の向こうは中国山地だ。私の足も攣りそうだ・・・。

 

実は島根でひとつ触れたい問題がある。竹島だ。

 

前述の建物の二階は、竹島資料室として使用されている。写真撮影は禁止だったが、意外なことに若いカップルが結構いた。だけど展示の内容は悲惨・・・。

 

韓国が勝手に引いた李承晩ラインによる竹島の不法占拠は今でもよく報道されているけれど、韓国が日本の漁船を片っ端から拿捕し、船員を牢屋にブチ込み、国際的に不当に多くの人々を悲しませて来たことはどれだけの人が知っているだろう。ラインを引いた裏の理由は、要は船を欲しかっただけと思えるくらいに。

 

ただ当時の日本はGHQの占領下だったから、全く身動きがとれなかった。朝鮮戦争も始まり、冷戦も深まり、上手くいかない流れが続きすぎてしまった。

 

ここで展示を見ると、地元の人が受けた苦しみがよく分かる。素朴で正直。竹島で行っていたニホンアシカの漁や関わりも初めて知った。

 

でも何もこんなにこっそり展示しなくてもいい。地元の声が一番なんだから。

 

ふ~。どうしようこの急傾斜の階段・・・。絶対攣る。分かる。攣る。

さっきお姉さんたちの写真撮ってあげた時既にピキピキきてたし(汗)

下りれない~。