
本日はJIA建築家協会のメンバーと韮山、伊豆長岡を訪れました。東海支部の支部大会候補地として視察を行いました。この辺りは平安の末期から突如として日本史に現れ、日本の歴史を転換させてきた場所として歴史通には有名です。いや、歴史通でなくても知っていますね、まずは源頼朝。彼が平氏との戦いに敗れ流されたのが韮山の蛭が小島という場所(現在は田んぼの中の公園)でした。伊豆半島の北部の田方平野は大昔は海が入り込む入江だったようで、その地形の影響で平野を流れる狩野川は、太平洋側で唯一北上する一級河川となっています。当時の河川ですので、ご多分に漏れず何度も流れを変えていたため、川の位置も今とは違い頼朝がいた場所が河の側でした。あまり環境が良くない場所に意地悪で居させたんでしょうね、なんせ蛭ですから。

まあそんな意地悪に耐え、辛抱を重ねて地元の豪族北条氏の娘と結ばれ、挙兵したのは有名な話。なのでこのあたりに、鎌倉幕府初代執権北条時政が建立した願成就院という由緒あるお寺があります。国宝もありますので是非水曜日以外にお越しください(私たちは水曜日にあたってしまいました…)。

またその近くには、室町時代末期に置かれていた堀越御所がありました。それを駿河の興国寺城城主で今川家当主の叔父だった伊勢盛時が攻め滅ぼし、後に北条早雲と名乗って伊豆を納め、ここを拠点に相模や武蔵を攻め、関東支配を目指していきました。
ちなみになんで北条と名乗ったかというと、実は鎌倉幕府が瓦解したときに、北条家の女性や関係者達が鎌倉から韮山に引き上げてきており、北条コミュニティが密かにあったわけですね。国政からは落ちぶれたとはいえ、土地の人にとっては貴人ですから信用は大きい。一方で伊勢氏は元々備前の国に所領をもつ足利幕府の高官でしたから、伊豆という地に根付くために、郷に入りては郷に従えの一番強烈な改名を行ったんですね。その後の北条家5代100年の歴史は言うまでもありません。そんなわけで、同じ静岡と言えど、このあたりの人は昔から関東志向なのでした。

そして時は下り幕末。今一度韮山に注目が集まります。幕府の韮山代官(伊豆国、駿河国、相模国、武蔵国、甲斐国の幕府直轄領を管轄)の江川太郎左衛門が開国動乱の中で国防政策を建議し、お台場に砲台を据えるため、韮山で大砲を造ることになりました。韮山反射炉です。鉄から大砲を鋳造するための装置ですね。日本には長州の萩にもありますが、明治日本の産業革命遺産の構成資産の一つとして、世界遺産に登録されています。写真の屋敷は江川邸ですが、大河ドラマ篤姫の撮影でも使われました。
このあたりは本当にのんびりしていいところなんですよ。穏やかな気候の田方平野のなかでイチゴ栽培なんかして、西に行けばすぐ沼津のマリーナだし、東の山の上は別荘地だし、更に超えれば伊東で温泉があるし。南に行けば修善寺、天城湯ヶ島ですしね。史跡を巡ってみたり、地形や位置関係を考えてみて、やはり伊豆を納めるなら昔からこの辺りが中心だったんだなあと納得しました。


午後は、長岡の三養荘を視察しました。
昭和4年に旧三菱財閥岩崎家の別邸として置かれ、戦後に旅館として開業。以来、上皇陛下、天皇陛下のご宿泊を度々賜り歴史を重ねてきた、格式ある湯治場です。
また、昭和63年には、建築家村野藤吾設計による新館が完成。村野氏が90歳を超えて自分の全てを注ぎ込んだことでも知られています。
限られた視察ではありましたが、建築の細部に触れるだけで本当に勉強になりました。
庭と地形と建築の調和が見事でした。