信州 松代1

上田を出て一路北上し、松代へ。真田家の歴史をご存じの方ならお分かりですね。

そもそも上田城は、武田家滅亡と本能寺の変(1582年)の後、領主が空白地帯となった甲信動乱の中、上杉家や北条家と対峙するために、真田昌幸が徳川家の支援を受けて築いた城でした。

皮肉にもその後、沼田領問題が起きて真田家は徳川家と戦うことになり、第一次上田合戦(1585年)で徳川家を退けました。

さらに関ヶ原の戦い(1600年)では父・昌幸と弟・幸村が豊臣方に、兄・信之が徳川方(本田忠勝の娘が妻だったため)に分かれて戦ったのは有名な話。中山道を進んできた徳川秀忠軍を破って(第二次上田合戦)足止めしましたが、結果的に関が原で豊臣方が破れ、父と弟は高野山に流され、兄・信之が上田の領主となりました。

その後、大阪の陣(1615年)でまた両陣営に分かれて戦い、豊臣家滅亡から7年後、兄・信之は松代に加増移封され上田を去りました。戦国時代の縮図のような、本当に大変な家です。

私は30代の頃に池波正太郎の小説「真田太平記」を初めて読み、この一族が通ってきた道をいつか機会あればたどってみたいと思っていました。で、15年以上経ち、機会は来ない、自分で作るしかないと思い、来てみた次第です。

上田から千曲川に沿って北国街道を北上していくと、聞いたことのある重要な合戦場の地名が出てきます。私も信濃国の群雄達がしのぎを削った地と思い、時々バイクを止めては周囲の山々を眺めていました。武田信玄、村上義清、上杉謙信。幾多の武将や軍師達が敵より少しでも有利な要害の地を求め、日夜山野を駆け回っていたのでしょう。

特に松代城の前身となる海津城は、武田の軍師山本勘助が川中島の合戦(1561年)に備え築城したことで知られています。強敵上杉軍と対峙するにあたり、勘助は万一の時のためを考えます。西側を流れる千曲川を天然の堀にし、三方を山々に囲まれ、城からの裏道が上田近くの真田の庄まで通じるこの地は、防御と撤退には格好の場所であったと言われます。

もっとも当の信玄は「月を見るのにいいな」と鷹揚に構えていたと、井上靖の小説「風林火山」で描かれてれています。最後の月見の数刻後には、最大の激戦となる死闘が繰り広げられ、山本勘助は討死、武田信玄も手負いの身となりました。

本当に静かで穏やかな現在の松代城。駿河からここまで来ましたが、ここはもう越後の方が近いんですね。城の周囲に残された水堀を渡り、石垣を抜け、展望台から八幡原と呼ばれた地を遠く眺めていると、軍馬の響きが聞こえてくるような気持ちになりました。