岩村へ向かうため、三河高原を北上して豊田市武節町の武節城址までやってきました。ここは街道が交差する要衝の地。写真の交差点から右側に行けば三河、左に行けば美濃、まっすぐ行けば信濃の国に至る三国の国境。
その昔、長篠の合戦に敗れた武田勝頼は、ここまで落ち延びてきて休息を取ったとか。
もし三河からの伏兵が潜んでいたら危なかったかもしれませんね。いすれにしろ現在でも奥三河の拠点地域。道の駅で休息した後は、一路美濃方面へバイクで走り出しました。
山間の街道を走り抜け、盆地の入口に岩村の町が現れました。ここは八百年余りの歴史を持つ三万石の城下町。江戸時代は代々松平氏が治めていましたが、歴史に詳しい方には戦国時代の方がよく知られています。
この辺りは信州と美濃の国境に近く、武田家と織田家の勢力がぶつかるエリアでした。この重要戦略拠点を確保しようと、織田信長の叔母「おつやの方」が当地の遠山景任に輿入れ。景任亡き後はおつやの方が家臣を率いて武田氏と戦い、女城主と呼ばれました。
その後戦国の悲運はありましたが、城下町は東濃地域の政治経済、文化の中心地として栄え、現在では重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
城下町に入ると、現在でも人々の営みが息づいており、保存だけでなく、進行しているのだ分かります。山城の岩村城から西に延びた城下町。風情も申し分ありません。
岩村城はとんでもない城です(笑)。本当に足が攣りそうになりました。
大和の高取城、備中の松山城と並ぶ日本三大山城の一つに数えられていますが、なぜそこまで登らせるのか、意味が分からないくらいです。もちろん建築的空間体験としては強烈なものがありますが、数百年にも及ぶ城普請の中で、石垣を積み上げ続けるのも相当の苦労があったと思うし、今の考えで言えばその労働合理性も不明なくらいです。
それでも江戸諸藩の府城の中で最も高い標高717mに築かれ、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城として、「霧ヶ城」と名をはせました。
実際、登ってみると気持ちがいい風が吹き抜けていきます。虎口虎口の連続で、恐ろしく防衛力の高い山城なので、便利さとは真逆の設計ですが、この山中に井戸が17カ所もあったとか。
鎌倉室町時代300年、戦国時代100年、江戸時代300年の計700年間、明治の廃城令まで存続し、江戸期に藩主邸は麓に下りましたが、城下町を含めよくぞ維持してまいりました。
そんな岩村藩ですが、実は駿河国内に15ヶ村の飛び地を領しており、私の地元に陣屋を構えていたとのこと。江戸までは距離がありますから、参勤交代の費えにしたのでしょう。後で調べたら陣屋跡がグーグルマップに出てきました。ご縁がありましたね。
一級建築士事務所 八木紀彰建築設計事務所/YAGI NORIAKI ARCHITECT STUDIO











